昭和30年代生まれにとってのベトナム
今回は非常に固い話で恐縮です。著者は昭和31年(1956年)生まれの爺さんですが、その年の政府発行の『経済白書』は『もはや戦後ではない。』というテーマで刊行されました。日本が戦争に敗れ「焼野原」となったのが昭和20年、その後は徐々に経済が軌道に乗り、もはや、「戦後復興」を意識して物事を進めるのではなく、新たな成長へ向けて進もうという時代の節目でした。
一方、そのころ、ベトナムでは1954年に「ディエンビエンフーの戦い」でフランスに勝利し世界を驚かせ、その後は「ベトナム戦争」へと更なる戦いでアメリカと対峙するに至りました。
昭和30年代(1960年代)、著者にとっての小学生時代は、東京郊外の「団地」で暮らし、新設された小学校に入学したのですが、その学校の窓は変わった二重窓で、その理由は近隣のアメリカ軍基地から「ベトナムの戦地」へ向かう米軍飛行機の爆音がうるさい為に飛行ルート下の学校の窓は防音のため二重窓を施していました。
東京郊外には立川、横田に広大な米軍基地が駐留し、街には多くのアメリカ兵やその家族で溢れていました。子供たちは外で活発に遊び、その上空には頻繁に轟音をたてて米軍の軍用飛行機が頻繁に飛び交う光景でした。とにかく、暗くなるまで外で遊び回り夕食の時間頃に帰宅しました。我が家の夕食はテレビを見ながら食卓を囲む庶民的な風景でしたが、その際にテレビから流れる夕方のニュースは、毎日、毎日、ベトナム戦争の動静を刻一刻と伝えていました。子供ながらにニュースを通して『南ベトナム解放戦線、ベトコン、ゴ・ジン・ジェム大統領、グエン・バン・チュウ大統領、枯葉剤』のベトナムに関する用語が染みつき、今でも記憶しています。 「ベトナムに関する動静」は大きな事柄として1970年代の若者の心に強く焼き付きました。 著者が大学一年生の1975年の春、海外事情の講義で、教授が興奮ぎみに『サイゴン陥落』を声高らかに解説していた姿を今でも思い出します。テレビニュースでは繰り返しベトナム国旗を掲げたベトナム軍の戦車が在サイゴンのアメリカ大使館へ入場する雄姿が流され、当時の若者たちへ大きな影響を与えました。アメリカでの18歳からの徴兵制度はその頃に停止されるのですが、著者とほぼ同年代のアメリカの若者がベトナムへ徴兵されて戦争に動員されていたことを考えると、、、。
大学を出て製造会社に勤めアジア地区に関わる業務を担当し、定年後に「外国人技能実習」関連の仕事に就き、ベトナム国を初めて担当することになり、社内のベトナム人スタッフやベトナム人技能実習生と毎日触れ合っているのですが、67歳のこの爺さんには子供のころからテレビ報道を通して焼き付いた且つてのベトナム戦争の光景と、現代のベトナムの姿を結び付けて観てしまう傾向があるようです。 固い話でした。